埼玉県さいたま市見沼区には、見沼田圃と呼ばれるとても大きな緑化地域があり、現在もいたるところに豊かな自然を残しています。
首都圏から約25キロ圏内という位置にあり、県内でもトップレベルに都市化が進んでいるさいたま市内に、都市と隣接しながら広がるこの奇妙な場所は、どのような経緯で存在しているのでしょうか。
このページでは、見沼田圃の歴史をご紹介したいと思います。
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『プロローグ:そこは巨大な沼だった』
現在のさいたま市と川口市を中心とした場所に、ずっと昔に巨大な沼がありました。どのくらい大きかったかというと、一周の長さはフルマラソンのコースくらいあったそうです。
細長く3方向に伸びている形状だったこともあり、三沼、と表記されたり、御沼だったり…いろいろな文字で記録が残っています。
画像の黄緑色の部分が現在の見沼田んぼですが、元々の見沼もほぼこれと同じ形をしていたようです。
とても広いですね。
画像:Wikipediaより引用
『江戸時代初期に、まず見沼溜井(みぬまためい)が作られた』
関東平野を流れる荒川と利根川ですが、昔はそのルートが全く異なっていたようです。
現在は千葉県の銚子市から海に流れ出る利根川ですが、モトは東京湾につながっていました。
水害を減らすという目的のために江戸時代初期、荒川と利根川の流れを強引に変える工事が行われます。
工事は成功し、水害は減ったけど農業用水も減ってしまった地域がありました。
それを補うために今度は見沼を利用して貯水量を確保しようという工事が始まり、できたのが見沼溜井です。
作れたけど、直後に周囲の田圃が軒並み水没するというお粗末ぶりでした。
『江戸時代中期、新しい田圃をたくさん作ろう』
それから約100年後、既存の池や沼を新たな田圃に作りかえようとなって、その一つに、見沼が選ばれました。
そして見沼溜井は排水され耕作地となり、利根川から本格的に水を引く工事が行われて見沼代用水と呼ばれる大きな農業用水を供給する水路が作られました。
『そして大きな稲作地帯に』
それからはずっと稲作がさかんに行われ、戦後は食料増産を支える貴重な農業生産の場所となりました。
しかしその後は、高度経済成長の影響で都心から近いため開発の圧力がかかり、一部は宅地となりました。
しかし、ちょうどこのころに発生した台風が川口市を中心に大きな被害をもたらしたのですが、見沼田圃が自然の貯水池として機能し、被害を軽減させた経緯があり、見沼は基本開発しない方針となりました。
『開発されないけど人も生き物もいなくなる』
やがて、米の生産調整や営農環境の激変などがあり、水田は次々と畑に、その畑も、どんどん耕作放棄地に変わっていきました。
その上、戦後の農薬等に依存した農業の大規模化により、自然もその姿を変えてゆきました。
昔は蛍や鷺(サギ)がたくさんいたそうです。
サギの営巣地として国の特別天然記念物に指定されていたこともあったようです。
『元に戻す。現代の知恵で。そして次世代に渡す』
一番輝いていた時と比べてすっかり変わってしまったとはいえ、せっかくここまで開発を離れ残った貴重な自然資源。
これをこのまま衰退させていくのは非常に勿体ない!
再び、稲作を行って、農園を作り、蛍を呼び戻そう。
胸を張って、次の世代に繋げられる場所にしよう。
その声に集まり立ち上がったのがこのNPO法人です。
紡がれてきた歴史という物語の続きを、今を生きている私たちが創り、少しでも良い形で、この地を子供達に渡したい。
これをご覧になった皆様とともに。
私たちはこう考えています。
参考: